前の記事からの続きです。
よく自分の会社や自分の活動内容について、IT関連なのか出版業なのかわからないと言われる。でも、そんな区別が必要なんだろうか。と書いてはみたものの、株主や提携先からは必要だと思われているので、売り上げのシェアからいえばうちはIT企業ということになる。
……そもそも「出版」って、紙メディアを取次経由で全国書店やコンビニ(CVS)に委託配本したり、広告を企業から出稿してもらってお金を得ることだけだと思っている人が多いけれど、それだけではない。
流通については、書店に並ばないコントロールド・サーキュレーション(ある属性の読者だけに限定して配布するモデル)や、フリーペーパー、有料会員 誌などのモデルが存在する。それに近年は書店のみならず、CVSに並べられたスナック菓子や音楽CDなどの付録としてミニ本やおまけコンテンツがついて いたりする。これも出版物であろう。
そしてオリジナル媒体だけではなく、近年欧米で台頭してきたカスタムマガジン(企業などが自社の顧客や特定の目的のために発行する媒体)も出版社が行なっている。同じ会社内でもディビジョンを変えたり、その企業と合弁会社をつくって制作・刊行している場合が多い。
出版事業者や企業から受託して、コンテンツやデザイン、あるいは一冊丸ごと書籍や雑誌、ウェブサイ トを制作・構築するOEM(とは呼ばれず、編プロ仕事とか言われる……)も昔から重要な出版事業のひとつである。特に固定費が高い大手出版社にとって制作は次々とアウトソースされ、制作の空洞化が進んでいる。私はコンテンツ供給者らが自らメーカーとして、あるいはウェブの発信者となることに賛成であり、そのためのスキーム構築や支援を検討したい。
memo : 自動車製造業にマグナシュタイヤー社という企業がある。オリジナル・ブランドでの生産と発売を行なわず、OEMとして主にダイムラークライスラー 、BMW、フォードなどを顧客にもつ。つまり、注力する先を製造のみとしているのだが、技術レベルでは世界のブランド・メーカーより絶大な信頼を得ているのだ。
そんなマグナシュタイヤーがメーカーになれるのが、出版である。コンテンツは無体物なので、組立工場などの設備投資は不要だ。IT企業と同様に人とスキル、情熱、PCと雨をしのぐ部屋、ネットへの接続環境、よいビジネスモデルがあるのみ。明日からでもブログを開設すれば、それが出版である。
ウェブマガジンはもちろんのこと、情報をアグリゲート(集約)し、それを独自に提供していく仕組みづくり やアフィリエイトを組み合わせたCGM(コンシューマ・ジェネレイテッド・メディア)など。これも概念的には既存の出版社が行なってきたこと の延長だと考える。
というように上記に挙げた範疇をどんどん拡げていくと、商業出版は無体物であるコンテンツを扱い、それを商材化・権利化し、そのような仕組みをつく るスキルやインフラを貸借・売買したり、コンテンツを間接的、あるいは直接的に換金化していくことだと思う。むろん、目指すはユーザーの利益と公益に適う情報配信である。アウトプッ トされる先は紙に限定されるわけではないし、出版とは既存出版社の業態をもってしてのみ定義されるわけではないと思うが、どうだろうか。
コンテンツによっては、実は売り場は書店やCVSじゃなくても構わない。前述のように出版社だけが出版をするというわけでもないし、書店流通
だけが販路ではない。買い手やユーザーのトラフィックを押さえているところが売り場になる。
私の仕事はそのようなプランを提案し、メディアとメディアを運営した経験のない企業にも出版のソリューションを提供している。それも広義な出版だと思う。
ビジネス VS 出版(と、その気高き精神)
とにかく、多くの人が思い描くであろう旧来型の出版は全世界的に凋落しつつあるし、特に日本は寡占的な流通と決済システムによって支配されているため、周知の事実として市場規模縮小と構造不況のダブルバインドに陥っている。
この状態を長らく放置してきた要因として、編集とビジネスが乖離、というか、単純に相容れないものという意識が日本の出版社の場合には根強いのではないだろうか。
精神性を重んじる点は、言論活動や表現が主体であるから仕方ないとしても、ビジネスまでもが情緒的であるのは否めない。それゆえ、アウトサイダーにとことんやられてしまう(ie. ブックオフ問題)。
誤解しないでほしいのだが、私はGreedyな外資やIT企業に呑み込まれてしまえと思っているわけではない。出版業界の再編は出版業界の手で行うべきだと考える。高邁な(あるいは屈折した)精神性がない者のつくる本は退屈だからだ。合理性のみでコンテンツが生み出せるわけではない。そこがこの業種の難しいところなのだが(特に自分は編集者としては、非合理の塊となる)。
加えて、今頃は米でもReading at Riskといれるように読者の読解力というのも低下しているので、送り手と受け手の水位は年々低くなっていると言わざるを得ない。編集者といっても企画すら出せず、本もロクに読んでいないくせにプライドだけ高い人材も少なからず存在する。いまでは送り手のほうがReading at Riskに晒されているので、自分がブログを支持する理由のひとつは、賢い読者こそが新しい送り手だと考えるからだ。
……と書いていて、既存出版業界についての考え方は10年前とそんなに変わっていないことに驚く。自分じゃなくて、業界がちっとも変わっていないのだけれど。
編集者は空間の司祭というが、ネット上の編集者はエンベッド(組み込み)型のソフトのように、サービスのなかに存在すると思う。昔よりは出しゃばらずに、それでいてフレームを制御するだろう。
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