Newsless.orgで興味深い記事を見つけた。
ジャーナリズムとはなにか? ニュースとはなにか?……について考察された内容だ。
To me, journalism is the constant effort to deliver a truer picture of the world as it is. The “latest developments” provide one lens through which to capture that picture. And as long as journalism was primarily delivered by static media, that lens made perfect sense.
私からみると、ジャーナリズムとは世界について正確な絵図を送り届けようとする日々の努力である。最新の現像物(地勢)は一枚のレンズを通じて取得した絵である。そして、長い間にわたり、ジャーナリズムは静的なメディアにより第一に送り届けられてきた。
記事は、さらにインターネットにおけるニュースと比較する。インターネットは、静的なメディアと違い、日々移り変わる世界をさまざまな方法により送り届けることが可能なものであると語る。
そして、それは“新しい話題という名の専制君主”を許してしまうものだとも。私たちに必要なのは、「文脈」であり、(本当に必要な)情報は、ニュースに押されて埋もれてしまうのだ。
この記事の著者は、ニュースこそジャーナリズムというレンズに抑えていてほしいものである、と述べる。わたしたちに必要なジャーナリズムの未来とは、「文脈」の未来かもしれない。
この記事を受けて、いま一度、新聞やテレビの未来について思いを馳せてみよう。
たとえば、昨日のノーベル物理学賞受賞についてのニュースだが、朝から晩まで、受賞者たちの感想や人柄が語られている。果ては、奥さんとの結婚のなれそめとか……。
……しかし、待てよ。この人たちはどんな研究でノーベル賞を受賞したのだ? 世界での評価はどんなものなのか? これが人類にとって、どのような意味があるのか?……謎である。謎のまま、「めでたい」「素晴らしい」のシュプレヒコールだ。
素粒子物理学が一般的に理解しづらいことはわかる。なぜなら、わたしはこちらのコンサルテーションを行なったことがあるからだ。
でも、日本の最たる頭脳が集まるテレビ局や新聞社こそ、受賞者たちの業績をなるべく平易に解説する必要があるのではないだろうか? わたしがうんざりするのは、目にするメディアが、どれも世間話の域を出ない横並びの凡庸なつくりであることだ。
よく新聞社の人たちと話をする機会が多いのだが、わたしが「いまの規模を維持するのは無理がある」という話を振ると、「わたしたちの組織力により、世界から情報を集め伝えることができるため、この組織を維持する必要がある」という旨の意見を伺うことが多い。そうだろうか。ネットを通じたニュースワイアにより、質を保ちつつ情報取得コストを下げることはできないのだろうか?
どこにジャーナリズムがあるのだろう? 大衆に迎合しているだけで、レンズを通して世界を正確に伝える努力を放棄していないだろうか? 現代のマスコミュ ニケーションは、「文脈の死滅」かもしれない。
「大衆はこういうパッケージでしか理解できない」という送り手の意見を聞くことのほうが多いが、そのパッ ケージングを送り続けて、にっちもさっちも行かなくてなっているのは誰なんだろう? 上客ではなく、一見さんだけを意識していないだろうか。
パレートの法則に照らせば、利益の多くは上客がもたらすのだ。たぶん、ブランドもそうだろう。それをブランドたらしめているのは、上客が認めているからだ。
上客が満足すべく、この情報空間の空洞を埋めないかぎり、インターネットのほうが情報は速く、ときに専門家の真摯な意見が散見される(当然、ゴミ情報もだ)。しかし、それを 毎時眺めて、取捨選択している余裕はわたしたちにはないし、単に収集するのではなく、「レンズ」を通した意見や解説が聞きたいとも思う。
「レンズ」とは、人間だ。そして、それはプロの専門家たちを指す。
即ち、新聞、テレビの未来、ひいてはジャーナリズムの未来とは、「人間」の復権…というか介在である。垂れ流される情報に、人間力による「文脈」を付与し、読者に思考を促さなければ……。
匿名性を増し、右に倣えと情報を濫造している限り、マスメディアは不要であろう。どのチャンネルも有限資産である電波や紙の放蕩にしか映らないと思うのだが、いかがだろうか。
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