収差あっても、光量が落ちても、二重線ボケが出ても、パープルフリンジが生じても、フタつけっぱでなにも見えなくてもいいのではないか、というのが写真を始めてからの疑問でした。
無論、きちんと撮れることは大切なことです。というか、当たり前ですよね。しかし、きちんと撮れていても退屈な写真が多いことも事実かと。というか、その人には退屈じゃないと思うので、他人がとやかく言う問題ではないでしょう。そして、表現として考えたときに、そののりしろというのは無限であり、厳密な計測や観察が重視される写真とは別に、よく写らない写真があってもいいかと。
かつて中平卓馬さんは、写真とは厳密に対象を観察する植物図鑑のような写真でなければならない、と論じていたと記憶しますが、その論を遡れば写真と絵画の差異を含めたうえで述べられているのかと拝察されます…
しかし、昨今のデジタルによる変換を経る過程において、媒体の特性に適う表現よりも、インプットのための媒体はなんでもよくて、そのアウトプットが面白ければ何をしてもいいのではないか、というのがわたし個人の考え方です。また、アウトプットも印画紙である必要すらないと思っています。
昨日今日始めたくせに偉そうに聞こえたらごめんなさい。
ただ、音楽では楽譜も読めないわたしでもMIDI機器とGarageBandがあれば作曲できてしまうし、DJだってできますがそれを咎める人はいないでしょう。才能ないなぁ、と思う人はいるでしょうけれど。
よって、音楽にノイズ派というのが存在するように、写真にノイズやローファイ、3コードしか弾けないパンクがいてもいいだろうし、実際いるんだと思いますが、なんかこう「こうでなければならない」という話を聞くと、そうでない方法を模索したくなります。
ハイフィディリティだけが人生ではない気がしますが、ローファイで歪んでいてもいいんじゃないでしょうかね。周辺光量落ちも人生みたいでいいと思います。
全員がモーツァルトを目指すべきだとしたら、わたしには縁遠いのですが、いつかきっとナインインチネイルズやGod is my co-pilotにはなれるのではないか、と考えたらもっと楽しくないですかね? ない? そうですか。生まれてすみません。
コメント