最近のわたしはこの地上より消滅したいくらい陰鬱な気分なのに、立場上、あまり正確に自己の内面とやらを吐露できないので、写真と不明瞭な文章に託すわけですが、皮肉なことにそうしてみると、初めて写真を通して言葉を喋るということを理解した気がします……
これまでは「絵に内在するであろう物語性」を提示しているだけであって、言葉になっていなかったな、と上っ面を撫でていただけでした。
例えば…もし、わたしの作品に「あなた」の視線が必要で、その視線なくしては世界が成立しないとします。わたしが監獄の牢人で外界の脱獄協力者は「あなた」しかいません。その「あなた」になにかを伝えようとするなら、それは一語一句、重要であり、キャプションではなく、写真そのものに語らせねばなりません。
しかし、爛漫に明瞭な写真を差し出すのならその気苦労はありません。たとえば脱獄用に入手したスパナを撮って、「道具」というタイトルをつけるなど。多くの写真はこの明瞭さを否定もせず、むしろ明瞭であることに気を良くして、レンズやボディの高性能化により、さらに万国共通の自明さを引き立てていくのかもしれません。それが悪いと言っているのではなく、そもそも「世界の写し鏡」なのだから、明瞭であることは特記すべき性質のひとつなので、当然の帰結でしょう。
ただし、その明瞭さゆえ、看守(これは公衆と言い換えてもいいでしょう)が理解するところであり、それは最初から予定調和を孕むのです。公衆には公衆への知らせ方があり、その方法論はすでに百花繚乱の花を咲かせ、エンジニアリングとして技法も確立されています。
写真というメディアの可能性と多様性を鑑みたとき、写真の性質のひとつである自明さを支える「怜悧な観察眼」を用い、「心という不可視なものの振幅」をセーブできるのか否か。バルブから1/8000秒までのシャッタースピードで、この気持ちや絶望、ささやかな希望や救いへの渇望が捉えられるのか。
先に想定した「あなた」がわたしの写真を見たくもないのなら、わたしはただ単に悶々と「あなた」の視線や気づきに焦がれているだけであり、逆に「あなた」が気づかずとも、公衆の一人がその赤裸裸な事実に気づくこともあるわけです。その誤配が「写真的」であると思います。
誤解されつつ、 誤解なきように伝える言語。それが写真なのかも。…などと、今頃噛み締めているわけですが、無論、写真論をぶっているわけではなく、ただ、わたしの極私的な写真への取組みについて述べたまでです。
赤裸裸な気持ちを言葉にせずに伝えようとするとき、写真というメディアは不思議な力を発揮するのかもしれません。いまのわたしにとっての写真は、心の回折を伝える二進法の手紙であり、エニグマ(暗号)なのです。
小難しいことを言っているようですが、要諦としては、”わたしは愚かであり、虚空である。そして、写真を通してしか素を語れない”ということです。
何ゆえに写真を通して表現するのか、カメラを持つのか、それが自分にとって…。興味深く読ませて頂きました。自分が納得して写真をこなしたいと、感じました。
暗号・・。
写真に含まれる暗号と、観る側の解読力をどう見積もるか。
でも観る側の第三者はなるべくひろく多い方が良いように思うと分かり易い(≠簡単)暗号が表現力として問われるのでしょうか?
わたしの今は亡き師匠は第三者に伝わらない写真はだめとまぁ、あっさり切って捨てられたことを覚えてます。
しかしこんな文章書けるのかっこいいナ♪
投稿情報: 雅写 | 2009/10/06 19:31
> 雅写さん
コメントをどうもありがとうございます。
わたしは暗号が表現力だとは思っていません。
ここに書いてあることは、あくまで自分のいまのスタンス(未来は違うことを言っているかもしれませんよ)なので、写真全般のことは知りませんし、多くの方はだれかに希求されて始めたものではないのだから、それぞれがそれぞれの表現活動における考えを深めたり、体現すればいいのではないかと思います。
暗号があろうがなかろうが、届けたい相手がいることには変わりはないと思うので、お師匠様の仰られることもその通りだと思います。
ただ、作為が明瞭かどうかはさほど問題ではなく(わたしの場合は、あけっぴろげなまでに作為はないのですが、暗号化されています)、誤配も含めて届く写真とそうでない写真があるだけかと。
小説も絵画も、心の捉え方や時代背景、思想に影響されるものだと思います。リンゴをそのまま撮って提示して「リンゴ」を表現することもあれば、まだ実のならないリンゴの苗木や種子だけ、あるいは赤ちゃんの頬を撮って「リンゴ」とするのも心の動きなので、どれが正しいとか正しくないということはないのかと…。
それがリンゴに見えない場合もある、ということがありますが、写真の善し悪しでいえば、その写真が心に触れるかどうかだけだと思います。よって、表現への欲求に関しては、皆が自分にとって具象的な、あるいは切実な「リンゴ」を撮ればいいのかもしれませんね。
わたしの場合、私的な言葉は言葉にせずに写真で語ることで、自分を癒しています。タイトルにもあるとおり、裸なのでそこに作為や嘘はありません。
また、わたしが想定した誰かに届くとは思っていなかったのですが、いくつかの写真について見知らぬ方々から、鋭敏にメッセージを読解された感想をいただいたりしていて、驚くことがあります。そしてまた、それが次の撮影に自分を向かわせます。
本来はその方たちに届けたはずではないから、誤配なのに、その人たちの言葉で暗号が解読されていたり…本当に写真というメディアは奥が深く、またプリミティブな言語(暗号)だな、と驚嘆した次第です。
雅写さんのように長年カメラと向き合われてきた方には青臭いことを言っているように聞こえるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
投稿情報: 小林 | 2009/10/07 09:11
キャリアは長いのですが、じつは出会う作品に解読不能なことがしばしば。自分の解読力をすこし恥ずかしく思うことすらこれまで多々ありました。そのへんは半ば諦めていた感もありましたが、ちょっとコバニカさんの文面から一度脱力して自分に問い直そうと・・。
コバニカさんの書かれる文面からほわぁんと脳みそに霧状に染み入ってくる感じが、惹かれているところです。コバニカさんのような言葉の達人が言葉に依らず発信したいと思える写真に、今もう一度はじめから向かいたいと・・思いました。ありがとうございます。
投稿情報: 雅写 | 2009/10/08 15:05
絵画なら自分が表現したいものをイチから作っていけるだろうけど、写真ってのはどこかから借りてくるしかないワケでしょ?
「自分に<近い>もの」を借りてくるって行為はもとから誤解を含んでくるだろうし、もちろん「自分そのもの」ではないわけで。
と書いていたら「でも言語も借り物じゃん」て気づいて自縄自縛www
投稿情報: nomad | 2009/10/11 14:23
> nomad
そうだね。借り物だし。でも、借り物だけど絵画よりも具象的なイコンが並ぶので明晰なプレゼンってのもあるし、視たものは視たもので視神経から心象をトレースしている可能性があるから、世界は借り物であると同時に内在しているのかな。
個人的にはこれまで言葉のほうが得意だったのに、言葉で語りたくないことのほうが多くて、いつしかブログが他人行儀になっていったのに対し、写真という言語は言葉とは違う受け入れられ方をすることに新鮮な感動を覚えたり……。
ごめん、これ以上は継げない…。
投稿情報: 小林 | 2009/10/11 19:32