昔から大江健三郎の初期短編を読む喜びというものは、いかなる現代作家のそれを読むことよりも、自分にとって至福の時であり、今日もなお刺激的だ。むしろ、読み進めながら、ちょっとクロックを修正してやるといい。いや、固有名詞とかを現代に当てはめてみるだけの脳内変換なのだが。
時代の意匠を変えることで、作品のもつ根源的な力がまた鮮やかに姿を見せ、わたしたちは新しいクライマックスに邂逅することができるのだ。
たとえば、最近に読んだ『性的人間』。
これは、タイトルが大仰なのと内容はわかってるんだけどジャケがエロくないのでちぃーともそそらんぜよ的AVのような印象から、読書を後回しにしてきた作品である。
また、同短編が載る文庫に併録されている『セブンティーン』が、実際にあった右翼少年による社会党委員長刺殺事件をモチーフにしたものと聞いていて、どうにも食指が動かなかったという理由もある。
いや、もっと根本的なところでは、「駄作だったらどうしよう…」という落胆したくないファン心理もどこかで働いているのだろう。
しかし、読んでびっくり。
いや、いつも大江作品にはびっくりさせられるのだが、どうにも氏の作品といえば『厳粛な綱渡り』などのエッセイや、ノーベル賞受賞後の発言や行動から、リベラル知識人の顔しか浮かんでこないため、デビュー時からの暴力的なまでの創作能力と天才を過小評価してしまいがちなのだ。…何回読んでもね。
『性的人間』は、金持ちの変態とその友人の話なんだが(簡略化しすぎたかしらん)、酩酊してスケベなことばかりして迎えた朝のような、恥ずかしいのと頭が痛いのと人生ってなんだっけか的な感覚が全編を覆っていて、「ああ、この感じ!」と思える青年期という名の道に発生した霧のような瑞々しさが、チクチクと刺さるような刺さらないような、久しぶりにviciousとvirtuousのダブルVな気分(なんじゃそりゃ?)。
私は、大江作品のいくつかを映画化したいと密かに思っているが(別に監督したいわけじゃなく、資金集めとか)、この『性的人間』を真っ先に映画化させてもらいたいと思う。
そして、音楽にはあって小説では意外と少ないトリビュート(!)が許されることならば、わたしは『性的人間』のトリビュート小説を書きたい。
それにしても、『セブンティーン』といい、この『性的人間』といい、こんな作品を昭和43年に発表していたとは!
清潔で潔癖、そして溢れんばかりのスタバと良識派に占められている21世紀では、この作品はタイトル以上に過激でヤバいのだ。
日常にテロルをけしかける妄想革命家としての痴漢は、ある種、社会システムから取りこぼされた病理者であり、そんなかれらは結束しないのである(現実の痴漢はネットで結束しているという噂も聞くが…)。しかし、そんなソロ活動家である痴漢たちが連帯を組んだらどうなるのか、その白昼夢を無根拠に描いてみたら、どうだろうか。
「性的人間」の物語がどう出発したのかわからないが、同書は社会に対する“理由なき反抗”ってゆーか、“理由なき痴漢”なのだ。いや、痴漢の理由って「ムラムラ」したとか「アヘアヘ」したいとかバリエーションに乏しいから、やっぱり理由なきってことで。
満員電車に揺られて職場に向かう“日常の囚人”たちが、日常への報復として痴漢に至っていると仮定してみた場合、電車という密室には具象化しない暴力が渦巻いてるんじゃないだろうか。読後、わたしたちはもはやフツーには電車に乗れない。主人公のように…ああ!…(絶句)
あいつはトレンチコートを剥ぎとられて裸で小さな皺のような眼とふやけたペニスからしずくをたらし自涜したチンパンジーみたいな格好で警察へひかれてゆく自分を予感しているにちがいない。股倉(ママ)はすでにかたまってきている涙のような色の精液のゼリイでこわばらして、数しれない敵意の眼の前で。「あの冒険家を助けてやろうじゃありませんか」と青年は熱情を感じていった。「ああ、救助しよう。もし、できれば!」と老人はこたえた。
本作は「満員電車文学」(by 俺)の金字塔なのである。
ほかにどんな小説があるのか知らないが。
『性的人間』は、マンガ化してもイケると思う…。山本英夫氏、福島聡氏らに描いてほしいものである。
そうそう、話は変わるが、『セブンティーン』も読み進むうちにガツンっとやられた。
弱い少年が全体主義への憧憬を募らせ、バーチャルな強さを手に入れる過程というものを内面から追っていって、これは心理小説の怪作である。現代ならば、ネットを舞台にしても面白いだろう。映画『ピンク・フロイド・ザ・ウォール』を彷彿させる迫力がある。
後世の作家の多くがどんなにドラッグ、セックス、暴力を描いても、逆に自身のなかに引きこもってしまい、了解事項の周縁を突破していない気がする。なので、記号の猥雑さに目がくらむだけ。
しかし、過激な描写でもないくせに、すごく過激ななにかを描いている気がする大江作品は、いったい何でしょう。感想ではなく、問いになってしまったよ。とほほ。
大江文学、おそるべし。
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