80年代頃から高度資本主義と呼ばれて久しいけれど、わたしが思うに、いまは末期資本主義じゃないかな。
単に不況なだけだよ、という見方もあるけれど、モノを売り続けるということ、つまり、「欲望の差延化」(by 浅田彰氏)システムはもうダメかな、と考えています。
カメラの虜になってから、ますますそう思いました。たとえば、いまのデジタル一眼はクロモノ家電(黒いからね)で、愛着がわいても、すぐに劇的に進化した新製品が出てきてトホホな感じですよね。
でも、スーパーイコンタのように戦前、もしくは戦中・戦後のカメラなのに、いまのデジタル一眼を凌駕するような描写力を見せつけられてしまうと、進化ってなんだろうって思います。
もちろん、進化を否定するつもりはないけれど、進化には限界があるんじゃないかというのが、わたしの仮説。つまり、人間には折り返し地点のようなセンサーがどこかに組み込まれていて、あるピークに振れると揺り戻しが起きるのではないかと思うわけです。
そこで、これだけモノが増えたら、次は欲望を喚起し続けるのではなく、USEDのモノを組み込んだ新しい経済圏(=エコシステム)をつくるべきじゃないかな、と。メーカーなどの大企業はともかく、新規ベンチャー企業はそこに商機があるような気がします。
じゃあ、具体的に説明しろよ、と言われると困るのですが、いまのわたしにはオールド・レンズを最新デジタルカメラにつけて、レトロリバイバルさせることしか頭にありません……(結局、カメラの話かよとブーイングしないで、そこ)。
そのためのボディ内手ぶれ補正がついたフルサイズの専用機があってもいいと思います(高価なレンズを買わせるためのやつじゃなくて)。たとえば、顔認識や動画撮影は要らないし、画素数も1000万以下でいいから(35mmなんだから、詰め込んでもなぁ)……そんな感じで、常に最新商品を売り続けていくだけじゃないニッチ市場を喚起し、メンテナンスやチューニング、アップデートなどのサービスをWeb経由で提供し、換金化するという経済圏が構築できるのではないかと淡い期待が浮かんでは消えていきます。
たとえば、四輪でいえば、カリスマ的存在のメルセデスW124シリーズをメーカーが自ら修理、もしくは復刻、あるいは法規や現代の技術にマッチさせたアップデートをかけて、リバイバルさせるとか。その価額は高くつくとしても、利益率としては元を返せるような気もします。
百均ショップで販売される安いモノか、高価で最新のモノ、あるいはUSEDという区分だけではなく、これからは「本物(というか、過去技術の到達点)」を永く使い続けられるための技術やエコシステム構築が新しいベンチャービジネスの起点になる気がします。
売上げを右肩上がりにし続けるために、消費者のニーズとは関係のない粗悪品を世に出すことが手っ取り早いのですが、そのツケはいつか回ってきます。そんな返品と納品を繰り返すだけの見かけだけ財務諸表がきれいな自転車操業フローは、ゾンビへの輸血システムのようなもの。
時にメディアを通じて「このゾンビは生き返ります!」と喧伝する人がいて、本気にした民衆がバブルのトリガーを引きます(とっとと上場廃止にすべき企業を、カンタンに上げて、今頃ひっこめた東証のような市場もどうかと思いますが)。
そんなシステムに付随する商圏(情報産業も含む)が崩壊しつつある昨今、もっと意義のあるシステムにシフトしないとまずいと思うのですが、たぶん、ある程度の崩壊は覚悟しないとならないでしょう。仮に崩壊していても、お金をちょっとしか使わなくても楽しく生きていけるような低カロリーな自給自足システム(食料問題および、社会的セーフティネット等)と関連すると考えています。
とつぜん飛躍はできなくとも、今後その姿はおぼろげながら見えてくるであろう……なんて夢想する師走の今日このごろですが、バブルってのは結局、ゾンビに輸血しすぎた状態で、「そいつが最初から死んでいる」ということを皆が忘却しているのかも。
……サブプライムもREIT(不動産の流動化)も、つまるところクレジットカード決済とは逆の“モノやコトがまだ存在していないのに、お金を集める”という仕組みであり、捕らぬ狸の皮算用ですよね。クレジットと一緒で回収できなければ、どこかでツケが回ってくる……といったことは、皆わかった上で乗っているんですよね?
つまり、ゾンビに輸血することが暗黙の了解である資本主義においては、輸血していたのが回復見込みのある人間ではなく、ゾンビであることを誰もが知ってしまえば、もはや市場にカモれる間抜け様御一行がいなくなった状態かと。新製品は常に旧製品より優れているとは限らないし、目新しいバブルは実態よりも人気だけが先行します。
だったら、間抜けを市場に供給して出し抜くゼロサム・ゲームじゃなくて、皆が欲するモノやコトには限度がある、といった前提に立ち、相手をリスペクトした新しい資本主義の構築が必要なのではないかと夢想する今日この頃……。
写真は2枚ともローライコードVa。下は多重露出。題は「街の果て」。
良い事言うねぇ。 私も食えなくなるかもしれませんが、来年がどうなるか写真で楽しもうと思ってます。
投稿情報: 上海君 | 2008/12/19 20:53
最終的なインターフェイスであり、ソフトであり、ハードである、人間そのものは、9万年前から進化してないですからね。
この「人間」という物体にとって、いちばん心地いいポイントが、さまざまなものやサービスにおいて、ピークは常に未来にあるわけじゃない、と小生も実感しております。
人間がインプットできる情報を、五感ではなく、主に視覚からだけに限定している今のデジタル的情報って、実は本質的に情報量が少ないのかもしれないですし。
投稿情報: yana | 2008/12/19 22:52
なんかバイクのゼファーの話をしてるように聞こえる…
俺はアレが売れてると聞いたときに、もうバイクに未来はないと思ったね。
そういや機械式腕時計もそういうモノだな。
商品が完熟したら、後は成長はなくなって、多様化に走るってことかもね。
バイクも腕時計もカメラも自動車も、自分を表現するものだっていうところが共通点かな。
一定の機能があれば、それ以上の付加価値は「自分の表現ツール」としてはたらく。
投稿情報: nomad | 2008/12/19 23:18
> 上海君さん
おもしろくなき世をおもしろく、ですね。
カメラがあればなんとかなるような気がします。
> yanaさん
マクルーハンではありませんが、ネットワークによる身体の拡張を語るときに、最大の矛盾点は身体はずっとそこに置いたまま、なんですよね。
意識は拡張するけれど、肉体は拡張されていない。つまり、進化と同時に退化が始まっている……みたいな。終わりの始まりかな。
> nomad
その昔に、“ゼファー=盆栽論争”ってのがあったね。
ただ、アレはZ系のデザインを抽出しただけで、本来のZ系の到達点を機能として模倣していないから、本記に書いたスーパーイコンタやW124なんかとは違ってハンパだと思っている。
TWやSRは昔からそのまんまという天然さにおいて、ゼファーとはちと話が違うよね。
でも、nomadの言う通り、ある地点からは多様化で、バイクは恐ろしい勢いで進化し、完熟し、折り返した有史稀な製品かもしれない。
過剰な機能にお金を出すことに疲れを覚えた人類が一定の割合になった時点で、復古調や懐古のコピペではなく、基本性能をひたすら磨くという姿勢を、特に日本の製造業は示したほうがいい頃合いかも。
そうすると、哲学が必要になってくるのかも。つまり、価値を押しつけろってことだけれど、そういうこと言うと怒る人とか出てくるんだよなぁ。
哲学を押し付けられてヒィヒィ悦ぶ消費マゾヒストをプロシューマーと呼ぶのだろうけれど、よけいなスペックを尊ぶコンシューマーばかりだと、職人さんもやってられないよね。
投稿情報: 小林 | 2008/12/20 02:23
職人の価値っていうのがわからないと、商品の価値に思い至らないよね。
それは自分と職人との関係性を相対化してとらえる作業だと思うけど。
投稿情報: nomad | 2008/12/21 22:31
> nomad
たしかに。その点は、いまやどうなんだろう?
企業から優れたモノが出てきて当たり前、みたいな受動的な態度の消費者が多いように思えるけれど。
でも、それも致し方ないというか、消費者ばかりが責められるべきではなく、職人とユーザーとの橋渡しというか、コミュニケーション的役割を担うはずのメディアが機能不全に陥っている気もするなあ。
投稿情報: 小林 | 2008/12/21 23:48
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
投稿情報: 株の初心者の資金 | 2011/12/22 10:10