六本木ヒルズのアカデミーヒルズで開催されたライブラリートークを聴講。
新進の若手生物学研究者の佐々木浩氏(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻)による講演『ヒトの身体をつくる“DNA・RNA・タンパク質”』は目から鱗でした……
もし、子どもの頃に佐々木氏のような科学の先生に出会っていたら、きっと道は違っていたかもしれないなあと考えつつ、文系っぽいことを考えていました。
ミクロからマクロへ:科学は曼荼羅だ!
ゲノム解析を筆頭に、人類は極微小な世界を観察することで、人間そのものの設計図を手にしつつあります。それは最新宇宙論の数々が、宇宙圏へのロケット打ち上げという外形的な探索からではなく、想像も絶する小さな単位である量子の観察から導き出されていることに通低するかもしれません。
X線結晶構造解析の話などは、我々身体の微細な世界まで視点を下ろしていく作業であり、小さな形のひとつひとつが巨視的な世界を理解するための手がかりとなっているので、究極の接写じゃないかと思いました。
多くのモノは光の反射でその存在を人間に知らしめていますが、写真は光が届く範囲しか写しません。赤外線や放射能線写真など波長を変えてモノを知覚しようという例もありますが、わたしたちが手にするカメラは基本的に光の反射のみを捉えます。
ということは、光が届く範囲しか写さないので、そこに“魂”や“本質”などというものは写らないのです(それら語句の定義にも依りますが)。そして、あたかもそれらが写ったかのように見える“表情”や情感に訴える“気配”を構成する物体だけが写るといえましょう。
あらかじめ幽閉された写真
写真とは限定された波長のなかでしか知覚しえないモノを、いかに美しく捉えるかというディレッタントな美的自閉に幽閉されることが予め定められているような気がしてきました。
ゆえに写真とは宇宙のなかのハイパー・ミニマリズムであり、俳句に近いのでしょうね。逆説的になりますが、わたしたちはその人の人となりを顔などから読み取ろうとします。つまり、内在する本質は大まかな外形に顕われることが多いため、やはり写真撮影は本質を写していることと同義かもしれませんが、最近はPhotoshopがあるのでそれも曖昧です。
“本質を写す”という月並みなクリシェを用いるのなら、画像の解像を精緻にするのではなく(そちらは肉眼の快感を刺激するだけか)、放射能線やニュートリノ線を用いた“見えないモノの視覚化”に解があるかもしれません。
見えないものが確実にあり、それを見ようとする構造生物学や量子物理学は、もしかしたら、究極の写真撮影なのかもしれません。写そうとしているのは、神のポートレートなのですから。
・本日の衝撃:Brainbow (ノーベル賞受賞者の下村博士がオワンクラゲから分離したことで一躍有名になったGFPを用いて描いたマウスの海馬部〜脳の活動が可視化された! )
・Judith K. McMillan レントゲンアート写真 (X線までが写真家としてハンドリングできる範疇かな? エッジな機材を駆使し、事象の内在を汲み取っているので、美学としてもっと評価されるべき)
こんな風に取り上げていただいて,恐縮至極に存じますm(_ _)m
「科学は曼荼羅だ」というのは,まさに言い得て妙ですね.曼荼羅を細かく描いた先で,ふと曼荼羅の全体像がどんなものだったのか分からなくなった気がするのが,最後に挙げた問題意識でした.
“見えないモノの視覚化”,“語りえないモノの論理化”を常に意識しています.その意味で,僕は研究も写真も同じ切り口の中で見てしまうようです.
投稿情報: hms | 2009/05/17 01:00
> hmsさん
どうも、先日はおつかれさまでした。しかし、あのボリュームはすごい!
それはともかく、“見えないモノの視覚化”,“語りえないモノの論理化”……それは、まさにARTじゃないですか!
投稿情報: 小林 | 2009/05/17 10:26