10月5日発売の「アエラ」大特集「捨てる哲学2」のなかで、どのような情報の収集と捨て方を行っているのかという趣旨の取材を受けました。
正直わたしは特に変わったやり方をしたり、目を皿のようにして情報収集しているわけではないので、答えに窮してしまいました。evernoteも使っていないし、読書会や勉強会などにも顔を出しませんし、どちらかと言えばだらけています。しかし、記者さんにはうまくまとめていただけたと思いますので、ご笑覧いただければ幸いです。P20に載っています。
情報の入力は非線形
それでは、わたしはどのように情報を取得しているのでしょうか。ツールはありきたりでメールやフェイスブックをよく使います。それらはあくまでツールであって、それ以上それ以下でもありません。まずわたし自身に情報が流れてくるように、友人や専門家とのネットワークをつくり、なるべく対面で会うよう心がけています。
そして、情報を提供してもらえるコツは自分も情報を発信し、わたし自身にだれかが会いたいと思えるような「価値」を身につけるように心がけています。
また第三者をほかの知己に紹介するなど、そういったことを繰り返しているうちに、自然と情報が寄ってきて、それがビジネスなどでも重要な益をもたらしてくれることがあります。基本的に「来るコンテンツ拒まず」ですが、自分でも意外な場所や意外な人からとても重要な情報を受け取ったりします。その流れは意図できません。日頃からの流れのなかで、自然発生します。
つまり、わたしの情報の取得に至るプロセスは非線形をしています。Aをしたから、Bのインプットを受け取ると言えればスッキリしていて美しいのですが、そのような因果関係が成立しづらいのです。
あらゆる情報には、いくつかのパターンがある
最近になって特に思うことは、情報をたくさん所有することイコール、英知が身につくとは限らないということです。むしろ、その逆で、知恵と知識は違い、知識をいくら身につけても、それを読解するのが知恵であり、それは文脈が読めるか否かにかかっています。その「文脈」が自身のなかになければ、知識に振り回されてしまい、右往左往します。
ネットを検索すれば、いくらでも知識は落ちています。しかし、ほかにどのような視座があり、自分はどう考えるのか、またどのような見立てが必要であるか、どのような立場を取るのかについてといった事柄は検索できません。
これは刊行される商業出版全般にも言えますが、多くのイシュー(論点)には何パターンかの「核」があります。それらが重複しているケースが多いのです。ネットも同じで、多くはひとつのイシューについて、いくつかのパターンに分類されます。そして、それらパターンが複製され、もっと多くのエピゴーネン(模倣)が検索結果に並ぶのです。
そして、それらの多くは劣化クローンですが、それらもキュレーションによって集約され、あるいは再び拡散されたりしています。
検索力+行動力+人間力
自著『Webとはすなわち現実世界の未来図である』(PHP新書)でも書きましたが、「検索しても見つからないものを見つけよう」という言葉は、情報禍(情報が多すぎて、もはや情報汚染ともいえるような状況)とも言える時代におけるフィールドワークの必要性を説くものです。
自戒を込めて言えば、昨今はネットでアクセス容易な情報をたくさん収集して、それらに振り回されたり、盲目的に過信しがちです。しかし、それとは逆に文脈を己のなかにつくるということは、時間と根気が必要です。イシューごとに始めなければなりません。そして、直接有識者らに会ったりして、自分の意見をぶつけてみるという体験も有益です。
実は、そういった情報収集には、まずは基盤となる文脈構築のために、フィールドワークを行うなど、「行動力」ありきです。また、その際に「人間力」が必要になります。ツールやデバイスを駆使し、効率化するのも良いのですが、「足で稼ぐ」ことをお薦めしたいと思います。皆さんはいかがでしょうか。
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