冒頭からアレだが、わたしは自動車メーカーといえばクライスラーが大好きで、このメーカーのデザインは宇宙一だと思っている。
ドイツ車のデザインも、最近はエモーショナルな方向に振ってきているようだが、クライスラーのそれに比べると、まだ勤勉なヤッピーのようだ。しかも、最近までガリ勉だったタイプの。
そもそもアメ車の魅力は、あらゆるところから滲むハッタリの強さである。クライスラー・グループのなかでも、ダッジは特に押し出しが強く、農耕機のような猛々しさに満ちていて、日本上陸の際には、木造家屋の町並みや日曜のミニバンでごった返すジャスコやダイエーの駐車場にアノ禍々(まがまが)しさがどうマッチするのか興味をもっていた。
そんなアメ車は、性能は二の次でデザインやゆるい造りと乗り味のみで語られるきらいがある。
しかし、それも過去の話。
信頼性はもとより、国際競争力もつけてきたことは周知の事実だろう。
…と書きたいところだが、いまだに周囲の人は「アメ車なんか乗って、大丈夫?」と怪訝な顔をして尋ねてくるので、まだまだ広告代理店言うところの「パーセプション・チェンジ」(認識の変換)とやらには達成していないようだ。
…にしても、最近のアメ車は本当によくできている。
たとえば、フォードのベストセラーカー、エクスプローラーなんて、あんなデカいナリなのにハンドリングは普通の高級セダンみたい。航空機のフライ・バイ・ワイアーのような仕組みのアクセル・バイ・ワイアーを装備して、緻密な制御を行っていたり、エンジンの回り方もバイエルン級とまではいかないが、それでも昔のぶっといこん棒でセメントをかき混ぜるような、力だけは出ているけれど繊細とはほど遠いエンジンの回り方は身なりを糺(ただ)し、かなりイイ感じになってきていると思う。
何年か前に、わたしが米国でレンタカーを借りた際、シボレーのコンパクトカーであるcobaltを選んだ。cobaltについてまったく予備知識もなかったが、運転して数分後には、もし自分が新たに車を買うならこれで十分!と思ったほどの完成度を見せつけられた。そのくらい、いまのアメ車は信頼に足る相棒となったが、同時に無個性になったと言えなくもない(まあ、それは調達部品の汎用化やOEMによるコストダウンなど、ヨソの外車とかにも当てはまるだろう)。
話をダッジに戻すけれど、ダッジはクライスラー・グループのボトムを形成する重要なブランドだ。ちょっと前に日本でも正規のデリバリーが開始されたのだが、あまり街で見かけることもなく、イマイチ人気がなさそうな印象を受ける。
たしかに、カタログスペックを見るかぎり、競合車との決定的な差別化要因がデザインのみで、そのほかのアピールポイントがいまひとつ見当たらないし、そもそも車については「物語」が重要で、その点においても「ダッジ物語」が日本にイマイチ浸透していないというあたりがセールス不調の一端であるように思われる。
そこで、ダッジ、ひいてはアメ車を盛り上げるために、これを書いているのだが。
先日、愛車の車検で入庫した際にクライスラーからキャリバーを代車として宛てがわれたのであった。
キャリバーについて、まず、最初に結論(by 辻つかさ)。
かなり、フツーである。
エンジンはとても静かな部類で、これはアメ車乗りのわたしとしては驚きである。CVがイマイチというプロの評価をネット上で見たが、アルファロメオの初期Qマチックのような変則の都度に空走するような感覚に比較して、「さあ、ヒョーロンするぜ」という気合い満々な人以外ならぜんぜん気づかない程度。
ハンドルのトルクステアはいたしかたなし。必ずしも上品に躾られているとは言い難いが、これも商品価値を貶めるほどのシロモノではない。
ボデイ剛性はちゃらい。イカついスタイルのくせに興醒めであるが、慣れたらこんなもんか、と。ま、多くの日本車みたいにイマイチですよ。
ハンドリングはアメ車っぽく、入力は軽め。シャキッとはしていない。ただ、クイックな部類かな。どのくらいクイックかといえば、アルファロメオの3〜4割くらいか。接地感はまずまず。軽快感を伴うセッティングなので、1.4トンの車重は気にならない。むしろ、飛ばし屋(死語)には手応えがもっと欲しいが、後述するように、アメ車の成り立ちでそれを求めるのはお門違い。
クライスラーのPTクルーザーに比較すると、重量があるせいか動きはちょいダル。ブレーキはフツー。シャシーは快適だが、スポーティーさは感じない。よくできた生活FF車プラスアルファというレベル。
しかし、デザインは最高……って、やっぱりそれしかないのか、と思うが、ちょっとタンマ。
アメ車の魅力には、「大らかさ」とか「鷹揚さ」ってのがあるのだが、どんなメーカーのアメ車でも、それは標準装備なのだ。マクドのスマイル=0円みたいなものである。そして、アメ車を論難する人はそこを誤解しているとも思う。
この「大らかさ」ってのは、大雑把とはちょっと違う。いや、同じか(笑)。まあ、もうちょっと言及してみる。
その鷹揚さとは、朝起きて会社に向かったり、疲れて帰宅する途中、鼻歌混じりに車を転がす際、なにひとつイヤな部分がない、という点だろうか。
アメリカは大都市以外、車と過ごす時間が人生の多くを占める。そこで、乗るたびにイタ車みたいにムラムラと高揚して峠に行きたくなったり、一時期のドイツ車みたいに説教臭かったりするとげんなりである。そのため、突出したエッジを立てず、かといって、引っかかりのある点を残すのでもなく、平均化させ、バカでもなんとかなるようなアメリカ流おもてなしで包むのである。
ちなみに、日本車がもっともアメ車に近い、というのがわたしの主張なのであるが。つまり、良い意味で生活圏移動物体としての無臭さが日米共通項なのである。
(ただし、その無臭さはアメ車の場合、こだわりを捨てたがゆえの無臭さであり、日本車の場合にはコストダウンからくるコモデティ「日用品」特有の無臭さと言えなくもない。ああ、ちょっとややこしいな。これをもう少し砕いて説明するのは、いずれまた…)
わたしは雨天や霧などの悪条件になるほど、アメ車に乗って癒されることしばし(この点、国産車はもう一歩。厳しい大自然の設定条件が違うのかもしれない)。ボルボやランドローバーにも相通じるところかもしれないけれど、ネバダの砂漠や、冬のカナダ国境近くとか、そういった生活環境下では、鷹揚さが威力を発揮する。これはスペックとは違う「クルマ力」なのだ。もちろん、0円だ。カタログにも書かれていない。
たしかにキャリバーはハードウェアとして突出していない。しかし、フツーに乗れて、フツーに使える。十分なのである。そう、わたしがシボレーのcobaltに感じた同じ印象を抱く。これ以上なにが必要か。
いやいや、日本車はもっと安くて、しかもフツーに乗れてフツーだぞ、という意見も聞こえてきそうだが、そのフツーさにアメ車が価額以外で追従しているのだ(アラ探しすれば、まだ並んではいないかもしれないが、違いのわからぬドライバーには小物入れの少なさ以外は見抜けないレベルだろう)。そして、追い抜いている点があるとしたら、フツーではない外観と、先に述べた鷹揚さ(しかも、0円)だ。
つまり、「こんな車、まともに走るのかな?」と思わせておいて、すごくフツー。
いや、むしろ優しいくらい。
あとはキャリバーのバケット風シートはとても座り心地が良くて、なかなかのもの。多くの日本車を追い越している美点のひとつとしてカウントしておこうかと(まあ、アメ車に限らず、欧米車に比較して日本車のシートは言わずもがな……これって、イスと畳文化の永遠に詰められない差なのか?)。
ということで、わたしにとって、まったく興味がなかったキャリバーだったのだが、乗ってみてかなり惚れ込んでしまった。中古価格も安くなっているので、ワル顔の国産ミニバンとかで個性を主張するくらいなら、こっちのほうがもっとワルく見えるし、追い越し車線じゃ、前の車がどんどん避けてくれる。そのくせ操縦環境はいたってフツーなので、「おらおらおら」運転にもならず、マナーの範囲内で偉くなった気がすると太鼓判を押しておく。
閑話休題。
この稿は、アメ車VSその他というような対立軸を持ち出していても、それはあくまでわかりやすくする尺度として語るものであり、本来的に比較しようがないとわたしは考えている。ここで外車に乗るということは、どういうことかを述べておく。ホントは先に述べておいたほうがよかったかもしれない。
それは、ライフスタイル、もっと言えば哲学とか思想、あるいはその国の生活に根ざした知恵のようなもの(=情報)を買うということであり、その車を評価するときに、ハードウェアのスペックだけをあげつらい、国際競争力のみ云々することは妥当ではない(そう言いながら書いてしまっていることは、まず認知がなければ、そちらの話に入れないからだ)。むしろ、語るべきは、それが培われてきた土壌と、そのなにが麗しいのか、ということだろう。
つまり、当然ながら、その生産国(厳密には開発国だろうな)の流儀が好きかどうかで評価は大きく別れるということだ。
A地点からB地点に移動するなら国産車で十分でしょ。でも、そこから先は、かの国のライフスタイルに浸る快感というものが、外車乗りにはあるわけで。
そして、私がアメ車について思うのは、以下だ。
アメリカでは、どんな人間も暮らせるように、あらゆることがコンビ二エントに設計されている。いわば、オートマチック社会といおうか。スーパーに行って買い物をしたり、住む家の前から通勤する会社までの生活圏で必要なことは、英語さえ理解できれば、さほど難儀することはなく遂行できるはずだ。
そんなターンキー社会(車のキーをひねるとエンジンがかかるように、超カンタン!という意味)に住む人々が乗る車なんだから、複雑怪奇なつくりだったり、エンスーな味わいなどというものを求めるのは間違いである。
いかに生活圏をラクチンに移動し、オンナコドモトシヨリが乗っても平穏無事に操作でき(差別ではない、比喩である)、週末には遠出したり、スーパーに買い出しに行ってもめげないユーティリティが提供できているかがミソなのだ。
加えて言えば、もっと大きなさじ加減としては、たとえば、厳しい取締に捕まらないように、あるいは、長距離を移動する際に疲労を軽減すべく、さほど速度を出さずとも快適に走るためのトルクが用意されていることとか、μ(ミュー)が日本の道路に比べて低く、整備状態も悪い路面をしんなりとこなすためのシャシー、というあたりはお約束だ。
最近ではハンドリングや乗り心地が、欧州車並に硬質化するアメ車ではあるが、それでももっと根っこの部分ではアメリカンなおもてなしが見え隠れし、それ自体は不変なのだ。
それは、「辛い人生、車に乗っているときくらいは、あんたが大統領。難しいこと考えないで、ラクに行こうよ」という機械からのメッセージだと、わたしは了解している。
アメ車は、大らかな愛と同義なのだ。
シボ加工プラスチックの射出成形がイマイチだの、コンパネがわずかに反っているだの(笑)、ボタンに節度がないだの、ピラー剛性が低いなど、どうでもいいことだ。
もっと奥底で、アメ車はあなたを愛している。それは、カタログに載らない「仕様」なのだから、壊れても優しい目で「もうバカなんだから(はあと)」と微笑むことができるワケだ。
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