カズオ・イシグロの『充たされざる者』について、以前、夢のなかガイドブックとして挙げたが、もう少し言及しておいたほうがいいかなと思ってマウスを取った次第。
実は以前に英語のペーパーバックで途中まで読んで挫折していたのだが、今回、早川書房の文庫版の翻訳を読み、いろいろと合点したところがあった。
原題の『The Unconsoled』は、意訳すると、「制御不能」になると思うが、翻訳版では主人公や登場人物たち、ひいては、この本を読むわたしたち自身が“充たされざる者”として、“指名”を受けている印象を抱く。
さて、唐突であるが、わたしは掃除機が嫌いだ。
あちこちの部屋や階段を移動する際、掃除機がうまくわたしに追従しないときや、ホースがからまったり、コンセントがホイールにからまったりしたとき、また壁にぶつけてしまうときなど、苛立がピークに達するのだ。
本作は、そんな“Unconsoled”に満ちている。
特に人間関係、それも男女におけるUnconsoledが主題ではないかと思えるほど、重要な礎となっている。
物語は、ヨーロッパのどこかの街に招聘された天才音楽家のライダーが、滞在中に出逢う街の人々たちとの奇妙な体験を通じて、どんどん“制御不能”な迷宮に入り込んでいくというもの。
カフカの『城』を彷彿させるが、カフカ的というよりは、もっと建築的であり、またバロック音楽的でもある。
見た夢を自然主義的に書くとこうなるだろう、と思わせる文章と構成は、これまでカズオ・イシグロが書いてきたものの裏返しであるが、綿密に計画されているという点では過去作品の延長にある。
私の手元にあるペーパーバックには、NYタイムズの書評「Work of art」が引かれているが、これは散文によるアートでもあり、ストーリーテリングとしてこれまでのかれの作品と同じような期待を抱いていると、手痛いしっぺ返しを受けるだろう。
実験作としては、しっかりと人間関係が描かれている点が、この作品を明晰な悪夢であることを示している。つまり、カズオ・イシグロが企図した迷宮は、偶発的な実験の成果ではなく、仕組まれたものであることの証左であり、英国の老執事を描いたときと同じ執念を感じるのだ。
ある人間関係とある人間関係が密接に絡み合い、やがて、断ち切れない連鎖とそれに盲従して暮らす人々の絶望が描かれているのだ。
そう、この作品は人生そのものなのだ。
冒頭に掃除機の話をしたが、わたしが掃除をしなくてはならないが、掃除機が常にしくじるのである。同様にあらゆる他者との関係において、わたしはそれらの人々を慈しまなくてはならないのだが、それらの人々が自らしくじり、わたしもまたしくじるのだ。
わたしたちの人生は“Unconsoled”そのものだと、合点した次第。
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